レクチャー2 サバイバルの為の殺人

19世紀の実際にあった事件を見てみよう。
ある四人の男の乗った船が嵐にあって難破してしまい、漂流することになった。
8日目までは船にあった缶詰めや、偶然捕まえた亀を食べて飢えをしのいでいたが、やがて食糧が尽き、二週間何も食べられない状態が続いた。
乗組員の1人にパーカーという青年がいて、彼には身寄りがなかった。
そのパーカーが水欲しさに海水を飲んで体調を崩してしまい、あまり先が長くなさそうだった。
他の乗組員たちは相談して、くじ引きをして負けた者を殺して食べようという話をしていたが、それなら身寄りもないしどうせ死ぬであろうパーカーを殺して食べてしまおうということになった。
1人は反対していたが、結局飢えに負け、パーカーを殺すことを黙認。
パーカーが寝た隙をついて、頸動脈をペンで一突きして殺した。
乗組員たちはその後の漂流生活の飢えを、パーカーの血と肉でしのいだ。
パーカーの死から四日後、偶然通りかかった船に彼らは救助されることになる。
1人の乗組員の日記に、救助された時の状況を綴っている箇所がある。
    ・・
「我々が朝食を食べているところに偶然船が通りかかり、我々は必死で声を張り上げた。」
そして彼らは救助された後、パーカーを殺害した容疑で裁判にかけられる。
乗組員たちは殺害の事実や状況については全て認め、争点はパーカーの殺害に道徳的意義が認められるかどうかという点に絞られた。
三人が生き残る為に一人を殺害したことは道徳的に許されるのだろうか。
弁護側と検察側の双方の立場から学生たちに意見を述べてもらいたい。


そう教授は問いかけた。
学生からは実に様々な意見が出てくる。



・殺人(カニバリズム)はあらゆる状況にあっても許されない
・くじ引きをした上でパーカーを殺したのであれば許される
・パーカーに同意を求めた上で殺したのであれば許される
・パーカーには身寄りがなかったが、他の乗組員には待っている家族がいたので許される
・乗組員はパーカーの血と肉を朝食などと日記に記述している。よって、殺人への罪の意識が無い為に許されない
・いつ救助が来るかわからない状況でパーカーを殺せば、再び食糧が尽きた時に他の誰かを殺さなくてはならないので許されない。もしくはパーカーを殺した直後に助けがくる可能性もあるので、殺人は許されない


学生の意見を聞き終わり、再び教授の講義が始まる。
当時の世論では概ね乗組員に同情する意見が多かった。(申し訳ない、裁判の結果は聞き逃してしまった)
なぜか。
道徳的に許される殺人の条件として、ある哲学者は以下のように述べている。
殺人をしなくては自らの生命が脅かされる可能性が高い状況において、殺人をすることにより最も喜びや快楽を得ることができ、かつ最も痛み・悲しみ・被害が少なくなる場合に限り、道徳的に殺人は許される。
つまり、身寄りもなく体調を崩しているパーカーにとどめを刺す(死期を早めただけと捉える)ことで、乗組員は餓死を免れ(食糧確保=快楽)、ひいては乗組員の家族を哀しませることがなくなる(乗組員の生還による喜び)というのが、彼らが漂流している状況において最も功利的だと世論が判断したということだ。
功利主義的立場からみた道徳的殺人の解釈についての討論は次回の講義へ持ち越すことにしよう。


ある哲学者の話は、俺が教授の話を噛み砕いてまとめた部分がほとんどなので、もしかしたら全然解釈違うかもです。



哲学には正解が複数あって、その中で最もマジョリティな意見が力を持つっていう、数の暴力的なところがあるのがおもしろい。
時代背景や風潮に結構左右されるところがあるから、今の日本みたいに安全な国の人からみたら殺人(カニバリズム)の全否定が大多数の意見を占めるのかなという気はするけど、紛争地帯で生きてる人たちにとっては自分の死も他人の死も非常に身近な存在なわけで、そういう人たちから見たら許諾を得ようが得まいが大勢が生き残る為には1人が死ぬことなんて議論の余地もない、ややもすれば道徳的感情すら沸き起こらない可能性すらあるのかな、と想像してしまう。
結局その世界の道徳に縛られるんじゃなくて、自分で正解だと思う道徳と心中するしかないのかな、と。


ネギとショウガと白菜とニラとしいたけと豚ひきとみそをちょっと入れたトゥルットゥルの水ギョーザを酢醤油とラー油で食いたいです。
山本メールありがとう、布団取り込みます。